俳優沼に転がり落ちたオタクの話

カプ観って何なんだと考えた話

『とある商業漫画家からBL二次創作同人の民へと告ぐ(https://anond.hatelabo.jp/20200712141747)』というブログを読みました。

原作者の立場として、自分が生み出した作品を承認欲求を満たすことや仲間形成のツールとして使われることや、自分のキャラクターの性行為や性癖の歪みを何も考えずに生み出されることに対する嫌悪感を書いてらっしゃって、ブログを書いた方のいう『BL二次創作同人の民』であるわたしとしては、とても考えさせられる内容でした。ブログを書いた方が一番言いたかったのは、もしかしたら一番最後のことだったのかもしれないけど。

ただひとつ、『同人女は原作を「履修」した後、当たり前のようにいずれかのカップリングに属する習性があるのです。はてなでお気持ち表明をしている女なんかもそうです。』というところだけは、それはちと主語が大きすぎるなと思ってしまって。 

というのも、わたしは『原作を「履修」した後、当たり前のようにいずれかのカップリングに属する習性』はなくて、『特定のカップリングに属した後にそのカップリング観を確立させるために原作を履修する習性』がある同人女です。

もちろん前者の方もいるんだろうなと思うんですが、同人女だからといって必ずしも読んだ全ての作品でどこかのカップリングに属するわけではないし、「へえ、それで推しカプは?あ、『まだ』決まってないんだね。 私はa×bかな」とは聞かない。この同人女のイメージ、『腐女子彼女』とか『801ちゃん』みたいな『腐女子』『同人』『BL』といった日陰に生きていた文化にじわじわと日の光が当たり始めたころに形成された『腐女子』のイメージって感じだなと思いました。同人女としての自我がまだ目覚めたばかりっぽい同人女な感じがする。

それだけがちょっと違和感だったんですが、でもブログを書いた方の周りにはそういう同人女が多かったのかなとも思いつつ。

話は変わって、わたしは特定のカップリングに属したからには自カプ観を確立させたいというか、原作で提示されている情報から積み上げたaの人格とbの人格を踏まえた上で、じゃあこういうシチュエーションになったらaとbはどうするんだろうっていうのを考えたい。でもここでわたしが捉えたaとbの人格の輪郭はあくまでわたしの主観に基づいて築き上げられたものなので、同じカップリングに属していたとしてもここの部分は人によってかなり異なってくると思う。

たとえば『片方がとんでもなく落ち込んでいるとき、もう片方はどうするか』っていうシチュエーションがあったとして、まず考えるのは落ち込んでいる方はどっちなのかってなってくる。わたしから見たらaはとんでもなく落ち込むことがある人間であったとしても、他の誰かからしたらaは目に見えてとんでもなく落ち込むことはせずに何てことない顔して振る舞う人間かもしれない。

そうなってくるとカプ観とは何なのか。
わたしにとって、カプ観は教義に近いものがある。

教義。宗教の教えを体系化したもの。多岐に亘る宗教があり、そのいずれにも独自のこれが存在し、各々の宗教を信奉する人が、これに則って物事を理解したり判断する助けとなるものとされる。教理とは相違がある。転じて、一定集団の中においてのみ支持されているルールや考え方も、比喩的に教義と呼ばれることがある(ウィキペディア)。

もうカプ観なんてものは個人の教義だと思う。
原作に基づいて築き上げる人もいれば、「こういう姿が見たい!」という欲求に基づいて築き上げる人もいる。他者から無理に押し付けられないかわりに、他者に無理に押し付けてはいけないもの。

ただやっぱり、原作者の方が嫌悪感を感じてしまうような捉え方をするのは嫌だなと思うので、今一度自カプ観を省みてみようかなと思います。おわり。